010年1月31日 語り部ツアーを予習する座学「纏向遺跡と三輪山との関係を探る」

講師:桜井市立埋蔵文化財センター 主査 橋本輝彦さん
於:桜井市立埋蔵文化財センター

今回の座学メモは次回橋本さんを語り部とするウオークin三輪と重複しない内容を中心にまとめています。

纏向遺跡の規模は吉野ヶ里遺跡7~8個分

纏向遺跡の遺跡の範囲はJR巻向駅を中心に、東西約2km・南北約1.5km、面積は300万㎡に及ぶ広大な遺跡です。広さを比べると少し前の時代の吉野ヶ里遺跡の7~8個分、唐古遺跡の10個分に相当します。

一帯は、弥生時代には未開発地域であったと思われ、3世紀初めになると、急に村落が形成されはじめ、やがて大集落に発展。しかし、およそ一世紀後には、大集落がこつ然と消滅しています。

なぜ弥生時代に人が住んでいない土地であったか。それは断層の存在があげられます。おそらく縄文晩期の大きな地震の土石流でいったん人が住めなくなっていた三輪山の麓の土地が、都をつくり、古墳をつくるのに水はけのよいおあつらえ向きの土地になっていたと考えられます

特徴的なのは大集落遺跡でありながら、ムラを構成する農地や倉庫の跡がなく、戦争で死んだような人骨や遺跡を囲む環濠もありません。一方で、出土した土器の3個のうち2個は奈良県以外のものです。東海・山陰・北陸・瀬戸内・河内・近江・南関東など日本列島各地や朝鮮半島からも古墳築造のために人が集められ、その人が目当ての商業が発達し大都会が形成されたのであろうと推理されます。

倭の国の新たな首都づくり

古墳時代の始まりについては、2説があります。本格的な前方後円墳としての箸墓古墳の築造からが古墳時代とする説と、箸墓の1/3規模の古墳の出現をもって古墳時代とする説です。いずれにしても倭の国の新たな首都である纏向遺跡の建設と共に古墳時代が始まったといえるようです。

なぜこの地に首都が建設されたのかといえば、中国大陸、朝鮮半島情勢の影響という理由がありました。中国は三国志の時代で、魏の国の国王といえばあの曹操です。日本がばらばらのままではやられてしまう、そんな危機感から、きちんとした首都を作りまとまる必要性が高かったのではと考えられています。

大型建物跡は卑弥呼の宮殿の一部である可能性も

その首都の中心に女王卑弥呼がいたかどうか。魏志倭人伝にある「金印」の出土といった決定的な証拠はまだありません。ですが、卑弥呼の宮殿跡かもといわれる大型の建物跡の出土で、その可能性は高くなっています。

3世紀前半の大型建物跡(南北19.2m、東西12.4m)の発見は、平成21年11月10日に発表され、11月14(土)・15日(日)の両日JR桜井線・巻向駅西側の纏向遺跡発掘現場にて橋本さんらが担当して現地説明会が行なわれました。

発見された大型建物跡は、後世の都京の南北軸のように整然と東西軸に沿った遺構で、専門家の間でも邪馬台国の宮殿の一部である可能性が否定できない状況。邪馬台国・畿内説を裏付ける重要な発見となりそうです。

三輪山信仰の禁足地としての三輪

纏向遺跡と密接に関連するのが三輪山信仰の祭祀です。三輪山は古来より神の宿る山として崇められてきたため、山中への立入りは厳しく制限されてきました。現在も登拝の許可を受けて入山しなければなりませんが、纏向遺跡の当時は遺跡の南側の三輪山の麓一帯が祭祀のための一種の禁足地と位置づけられていたと考えられます。

日本神話では、神代に大国主神が国土経営をしていた時、自らの魂が「三輪山に自分をまつれ」と言ったのが三輪山祭祀の始まりと説明されています。後に、実在した最初の天皇とされる第10代崇神天皇の代に大神神社が創建されたと伝えられています。歴史に崇神天皇が登場するのと入れ替わりに、纏向遺跡は消滅していきます。

橋本さんのお話では、次のような纏向遺跡の終焉説もあるようです。天皇の登場によって纏向遺跡にあった豪族の連合政府のような機能の必要性がなくなり、豪族が引き上げてしまったのではないかというのです。

これまで、日本の都市の始まりは藤原京からといわれて来ました。最新の土木技術で運河まで建設されていた纏向遺跡の全容が分かれば、日本の都市の始まりの歴史が書き換えられる日が遠くないかも知れない。橋本さんの座学でそんな感想を持ったメンバーが多かったようです。 

次回橋本さんを語り部とするウオークin三輪を開催の予定です。

(写真・文弓手洋一郎)

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