
ひとりひとりの心のなかにある、それぞれの
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語り部ツアーは今年からですが、大脇先生の案内によるツアーは昨年に続き2度目。今年は座学を行なってその折好奇心をかきたてられた場所を、一、二週間後に歩くという試みです。第一弾を行なってみて、やはり予習の効果はてき面です。今は地上になくても、歴史上あったものが、あった場所に、あるがごとく見えてくる、興味深々の語り部ツアーとなりました。
<今回の語り部ツアーのルート>
(集合)JR櫟本駅 → 大興寺 → 和邇下神社 → 在原神社 → 石上広高宮跡・姫丸神社・石上銅鐸出土碑 → 豊田山城跡 → 厳島神社 → JR天理駅(解散)
櫟本駅から和邇下神社へ。途中古道の「上つ道」、近世の上街道と交差しています。その沿道に街道町が発達したなかに帯解、櫟本、丹波市などの市場町があり、櫟本もその一つです。近くの「大興寺」は華道未生流流祖(未生斎一甫:通称山村山碩)の墓があることで知られます。
蒼々たる人物を輩出している和邇氏
和爾下神社は、「延喜式」にもみえる古い神社で、櫟本一帯を本拠地としていた古代豪族和爾氏(わにし)の氏神でした。和爾氏は、応神天皇以後7代の天皇に后妃をいれ、葛城氏と並ぶ勢力をもっていました。一族には、小野妹子、柿本人麻呂などの古代史に登場する学者や文化人が多くいます。
櫟本町は、柿本人麻呂の生地であるとの言伝えがあり、和爾下神社境内に柿本寺跡と人麻呂の歌塚があります。任地の石見国で死んだ人麻呂の遺髪を、後の妻が持ち帰って葬ったものだそうです。このあたりは柿本氏の氏寺である柿本寺(しほんじ)の跡にもあたります。
平安のプレイボーイ在原業平
在原神社は、もと在原寺と業平神社があったものを、明治の廃仏毀釈によって在原寺を廃止してし神社としたものだそうです。在原業平とその父阿保親王(平城天皇の皇子)を祀ります。
この地は業平が在原業平の生まれたところといわれます。境内には業平が幼い頃紀有常の娘と井戸の水面に並んで姿を映して遊び戯れた筒井筒が残っています。二人は、長じて恋仲になり、居を構えたのもこの地と伝えられます。
ところが、業平に八尾市の高安に住む河内姫という今でいう「愛人」ができ、ここから会いに毎夜通ったという「業平道」の一部が今も残っているそうです。妻との歌のやりとりからみると浮気も夫婦の愛のスパイスにしてしまっているところなど、平安のプレイボーイの面目躍如といったところでしょうか。
「宮の屋敷」旧地名は天皇の宮跡?
在原神社から直ぐの国道169号線を東へ渡平尾山の中へ入ると、古びた朱色の鳥居がずらっと並ぶ「平尾姫丸稲荷大明神」がありました。「宮の屋敷」の旧地名があるように、日本書紀に書かれた第24代仁賢天皇の石上(いそのかみ)廣高ノ宮や、天皇の父の市辺押磐皇子の石上市辺ノ宮があった所と考証されています。
豊田山城に向かってしばらくいくと「石上銅鐸出土地」の記念碑が立っていました。明治16年と17年にかけて突線鈕式の銅鐸が2個出土したyとのことです。辺り丘陵には、「石上豊田古墳群」と呼ばれる百数十基の古墳が集中しています。ほとんどの古墳が小さな円墳でが、中には「石上大塚古墳」「ウワナリ古墳」のように全長100mを越える前方後円墳もあります。
堅塁を誇った豊田山城
豊田山城の遺構は、郭、空堀、竪堀、土塁などだけで、素人目には周囲の山肌と見分けが付きませんでした。植村先生の説明を聞いて主郭は豊田山の山頂に置き、周囲を空堀や土塁で囲み、竪堀を放射状に落としてあったことがようやく理解できました。
豊田氏は興福寺の大乗院門跡坊人で衆徒でもありました。豊田城はその豊田氏の居城で、永享元年(1429)に井戸氏と争って大和永享の乱のきっかけを作ったことで知られています。当時の大和国においては筒井氏や古市氏に次ぐ有力勢力であったそうですが、応仁の乱後の明応七年(1498)筒井氏に滅ぼされ、後に松永氏の手に渡り、南郭・東郭や土塁、空堀の大部分が追加整備もあり中世の代表的な山城であったといえるようです。
最後に訪れたのは天理教教会本部の東方にある厳島神社です。この地には一帯約四千坪を有していた良因寺という大寺の跡で、今でも付近に西塔、堂の前、堂のかいと、堂のうしろ等と云う小字名が残っています。
小野小町は恋上手な女(ひと)だったかも
厳島神社本殿の脇に良因寺(石上寺)の 薬師堂が建っています。良因寺を建立した遍昭の隠居場といわれますが、室町時代の絶世の美女と伝わる小野小町が遍昭を尋ねて来て、一夜の宿を乞い、詠った歌が、古今和歌集に載っています。
小野小町
いはのうへに旅ねをすればいとさむし苔の衣を我にかさなむ
(意訳)石上ならぬ岩の上の旅寝は肌寒くてかないません。あなたの苔の衣を貸してくださいな。
遍昭
世をそむく苔の衣はただひとへかさねばうとしいざ二人ねむ
(意訳)法衣は寒さをしのぐにはたった一重しかないけど、貸さなければ冷淡だ。さあ、肌を寄せて二人で寝ましょう。
「小野小町は恋上手、ということは化粧上手な女(ひと)でもあったはず」と
、粋な歌のやりとりの解釈が植村先生はの語り部としての締めくくり。はじめの方で在原業平の恋のお話があり、小野小町の恋の歌に終わる語り部ツアーとなりました。
(写真・文弓手洋一郎)
柿本寺跡の歌碑
高安の彼女の元に至る業平街道
豊田山城への道