
ひとりひとりの心のなかにある、それぞれの
なつかしいまほろばの風景をつなげていきたい。
そんな思いを色々な目線でコミュニティどうし語りあい
手をつなぎ、心地よい「まほろば」へ育てていく。
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大和高原文化の会 植村勝彌先生
於天理市文化センター
風景街道まほろばでの、植村勝彌先生を語り部とするツアーも今回で2度目。昨年度の前回は座学なしでしたので、「もっと聞きたかった」感がやはり残りました。先生の方も「ほんのさわりだけしゃべっただけ」感がやっぱり残ったそうです。そこで今回は、たくさんの資料をご用意いただいて、大学の授業一コマに相当する時間をかけてたっぷりと座学を行いました。次回は座学で関心が高かったルートで語り部ツアーの実施です。
今回の座学&ウオークin天理のテーマは「古代豪族の謎を探る(~中世の天理も知りたい~)」。次回語り部ツアーの「櫟本界隈を訪ねて」のコースでの説明との重複を避けつつ座学の内容をかいつまんでまとめました。
平城宮の氷も一手に賄った大和高原
植村先生のふるさとは天理市の山手に位地する大和高原です。海抜500mくらいに位地するため、座学の日の朝も氷が張っていたそうです。古代には冬場にここで切り出した天然の氷が氷の貯蔵庫「氷室」に収められていました。そのまま夏場まで貯蔵されて、平城京の朝廷に献氷していたことが、長屋王邸跡より出土した木簡から分かったそうです。
天理市福住町には氷室跡があり、同町では氷室を復元していて、冬場の氷祭りで収められた氷を夏場に開封すると歩留まりは約1/3とのこと。それでも古代に夏場の氷がいかに貴重なものであったかは想像に難くありません。古代の氷の用途として、まずは葬送用、長屋王邸では夏季の飲食用にも用いられたとか。この地では天然の氷による高野豆腐作りが昭和20年代まで栄えていたそうです。
大和高原の先人山田道安
大和高原の先人として知られているのは山田城城主山田道安。戦国時代松永氏の兵火に焼けた東大寺大仏の修理にチャレンジした文人武将として知られます。画家としても「鐘旭図」が東京国立博物館に、「喰瓜栗鼠図」が茨城県歴史館に所蔵されるほどのキャリア、現在の大仏さんの尊顔は道安の設計により造られたものだそうです。
大和高原は、天皇の代わりに伊勢神宮に仕えた未婚の皇女「斎王(さいおう)」が、都から遠く離れた伊勢の地に群行されたときの道筋にも当たります。斎王の制度は672年の壬申の乱の後、天皇となった天武天皇が、勝利のお礼に伊勢へ仕わせた自分の娘・大来皇女(おおくのひめみこ)が 最初の斎王と言われています。
斎王に選ばれた女性は神に仕えるため、清らかでなければならない存在でしたから恋は御法度。でも伊勢物語には天理が生誕の地といわれる在原業平と斎王の恋物語が描かれていたりします。次回語り部ツアーには平安のプレイボーイ在原業平ゆかりの地もぜひコースに加えたいところです。
天理市北部は古代豪族・和邇氏の郷
天理市の北部は古代豪族・和邇氏の郷として知られます。4世紀後半にはこの地に有力氏族・和邇氏とその同族である春日・小野(小野妹子も一族の一人)・粟田・大宅・柿本(人麻呂も一族の一人)氏らがありました。5世紀末から6世紀前半に大和王朝(現在の天皇家)に多数の后妃を入れているそうです。
付近には後漢時代の大刀が出土した東大寺山古墳群をはじめ多くの古墳と、古い社である和邇坂神社や柿本寺跡などがあり、弥生~古墳時代の集落や祭祁場跡などが見つかっています。次回語り部ツアーではこの和邇氏の遺跡も辿る予定です。
大和王権の軍事を司った物部氏も天理市が拠点
大和王権の軍事を司ったとされる物部氏も天理を拠点にした有力な古代豪族です。物部氏は、朝鮮半島系の外来氏族と伝えられ石上神宮を氏神とし、その祭祀を司ったとされます。その一方で、石上神宮は物部氏との結びつきにより大和王権の武器庫としての役割も果たしていたと考えられています。
物部氏は天理市の市域の中程にあたる布留(ふる)町から杣之内(そまのうち)町の地域に居住。石上神宮から西に広がる布留遺跡がその居住域、南側に広がる杣之内古墳群と北側の丘陵上に広がる石上・豊田古墳群が一族の墓と考えられています。
中世の天理には東大寺や興福寺など南都寺院の勢力が伸びてきます。南北朝以降になると武士が台頭し、寺社領を支配下に収めて大小の山城を構え、守るようになりました。その一つに豊田氏の豊田山城がありました。もともとは興福寺にあった塔頭の一つ大乗院方の衆徒でしたが、次第に集落を掘や土塁で囲むなどして独立した武士集団化。奈良県の城としては空堀が最も発達し山城として知られます。次回のウオークin天理ではこの豊田山城を実地に踏査することになりました。
(写真・文弓手洋一郎)
植村先生座学
座学掲示史料
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