2009年10月4日 語り部ツアー「大脇先生を語り部に石舞台~耳成・横大路を歩く」

語り部ツアーは今年からですが、大脇先生の案内によるツアーは昨年に続き2度目。今年は座学を行なってその折好奇心をかきたてられた場所を、一、二週間後に歩くという試みです。第一弾を行なってみて、やはり予習の効果はてき面です。今は地上になくても、歴史上あったものが、あった場所に、あるがごとく見えてくる、興味深々の語り部ツアーとなりました。

<今回の語り部ツアーのルート>
(集合)石舞台バス停 → 島の庄遺跡 → 飛鳥板蓋宮跡 → 飛鳥水落遺跡 → 酒船石遺跡→ 飛鳥池遺跡 → 飛鳥寺南方遺跡 → 奥山久米寺(奥山廃寺) → 大官大寺跡 → 磐余池推定地 → 吉備池廃寺 → 横大路 → 近鉄大福駅(解散)

蘇我馬子邸(嶋の宮)の池の輪郭に遭遇!

石舞台古墳の近くから大型建物跡が発見されたのは2004年のこと。石舞台古墳から西約200メートルの飛鳥川東岸で7世紀の前期、中期、後期の掘っ建て柱建物跡が重なって出土しました。日本書紀には「馬子は飛鳥川のほとりに家を建て、庭に小さな島のある池を造る。人々は島大臣と呼んだ」とあります。

もしかすると、この発掘された大型建物跡は池に囲まれた蘇我馬子邸だったかも知れないことを予習していました。なので、語り部ツアー参加者は島だったはずの蘇我馬子邸跡に立ちます。目の前には池だったはずの田んぼが広がっているのを見ています。大脇先生が指差す田んぼの堤は、他の田んぼとの境界にしては明らかに不自然です。

発掘調査資料の大型建物跡と、あの田んぼの堤は平行なんですよ。と大脇先生。あそこまで池で、あの堤は池の堤が田んぼの堤として残ったもの。考古学の専門家からこんな解説をしてもらえば、素人にもかつてあった島と池の面影がが見えてきます。誰もが考古学の琴線に触れた思いをしました。

馬子邸の池の堤が実は田んぼの堤として残っていた!これはほぼ間違いないそうです。蘇我馬子邸は大化の改新のあと天皇家の離宮となり、草壁皇子の宮となってからも池が残っていたからこそ嶋の宮と呼ばれていたのでしょう。そんなことからも歴史が裏付けられるそうで、日本書紀を読み解く奥の深さも垣間見ることができました。


伝 飛鳥板蓋宮跡では、天皇が井戸で身を清める姿が彷彿

この区域には宮らしい遺跡があるとの伝承があって、板蓋宮の跡といわれてきたそうです。1959年からの発掘調査により、多くの掘立柱建物、掘立柱塀、石組溝、石敷遺構などが見つかりました。ここに復元されている石敷井戸は、意外と小さいものでした。天皇が何かのまつりごとを行うとき身を清めたで井戸であろうというのが大脇先生の解説です。

その後の研究で、この遺構が飛鳥京の中心であり、飛鳥岡本宮、飛鳥板蓋宮、後飛鳥岡本宮・飛鳥浄御原宮という三時期の遺構が重なっているとのこと。ということは大化の改新につながる中大兄皇子・中臣鎌足が蘇我入鹿を倒したといわれる場所も間違いなくここ。女帝持統天皇も白い衣をまといこの井戸で水行をされたことでしょう。


初めて国家が時を支配した歴史を語る飛鳥水落遺跡

飛鳥水落遺跡のことも「日本書紀」に、皇太子中大兄皇子(のちの天智天皇)が、日本で初めて水時計を作って人々に時刻を知らせた、と書かれています。1981年にその水時計の遺跡が、ここ飛鳥水落遺跡で掘り出されそれが裏付けられました。

ここでは、精密に、堅固に築いた水時計建物と、建物内の中央で黒漆塗りの木製水槽を使った水時計装置とが見つかっています。水時計建物を中心にして、水を利用したさまざまな施設が国家により作られていたことも分かりました。国家が初めて時を支配するようになったことを意味するととういのが大脇先生の解説です。

25階建て相当の塔をもっていた大官大寺と吉備池廃寺

この日大脇先生を語り部に大官大寺跡と吉備池廃寺跡という、二つの大寺跡ともとの名が分からないけど7世紀に第一級の寺院があった奥山久米寺を歩きました。最終的には平城京に移って別の名前になったりと、それぞれのお寺の変遷はまだまだ研究中のようですが、そこに今残っている塔の基壇にどんな規模の塔が建っていたのか。大脇先生はそれを目に見える形にしてくださいました。

座学でいただいた大脇先生苦心の資料、主だった塔の比較図がそれです。大官大寺跡と吉備池廃寺跡の塔の規模はほぼ同じで、姫路城天守閣を見下ろす高さ、現存する塔でいえば法隆寺五重の塔(高さ31.5m)の倍の高さ(25階建ビルに相当)であったことが一目瞭然。現場で近くにある立ち木を目測して、それをいくつ積み重ねた位地まで塔があったと想像するのは大変楽しいものでした。

日本最古クラスの寺院だったかも知れない奥山久米寺

現在の奥山久米寺という名前は江戸時代初期までしか遡れないそうですが、境内地に眠る古代寺院の遺跡は、もしかすると「日本書紀」の朱鳥元年(686)十二月条にみる五つの寺のうちの小墾田(おはりだ)寺ではないかとの説が大脇先生たちの研究で有力になっていることを座学で聞きました。

小墾田寺は考古学では小治田寺とも書くそうで、蘇我稲目の向原の家が豊浦寺に受け継がれたように、彼が欽明天皇から与えられた仏像を安置したとされる小墾田の家をルーツとするのが小治田寺として受け継がれている可能性を大脇先生は示唆しておられます。

つまりは飛鳥寺や豊浦寺とならぶ日本最古クラスの寺院なのですが、現在なおその正確な場所はわからないそうです。その最有力候補とされるのが飛鳥時代の瓦が数多く出土している奥山廃寺。このような瓦の研究を専門領域とする語り部大脇先生ならでは場所にご案内いただけた今回のツアーは得がたい体験と興奮の連続でした。

馬子邸池跡の土手馬子邸池跡の土手

大官大寺跡大官大寺跡

吉備池廃寺跡吉備池廃寺跡